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声優名 ステ♪  [ 声優詳細情報 ]
価格 2346円 文字数 11313文字
サイズ 100678.5 KB 公開日 2021年9月28日
声のタイプ 【真面目・メイド】従者 「お初にお目にかかります。私、本日から旦那様の身の回りのお世話をさせて頂くことになりました。秋山と申します。本日は採用のお礼を申し上げたく参りました。不肖の身ではありますが誠心誠意を尽くしてお仕えさせて頂きますのでどうぞ宜しくお願い申し上げます。それでは早速ですがお仕事を始めさせて頂きます。 何かご所望されることはございますか?…そうですか…それではまた後程、お伺い致します」 ファイル形式 zip
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作品内容  琵琶湖畔怨念女腹切 今参りの局のお話とその解説

台詞
琵琶湖畔怨念女腹切(びわこのほとりうらみのおんなはらきり)
篠崎 陽

時は長禄三年一月十九日。室町幕府八代将軍足利義政の治世です。
正月の祝い事も一通りは済んだ頃おい、ここは京都から北へ向かう、枯れ木ばかりが 立ち並ぶ街道筋。左には琵琶の湖がさざ波を立て、行方には伊吹の山の雪姿が白く 立ち上がっている近江路を、一丁の輿を囲んだ行列が北を指して粛々と進んでゆきま す。輿は幕に包まれて中の人の姿は見えませんが、先に小者が立ち、その後に馬に乗っ た武士が宰領し、更に五人ほどの武士と小者が加わった十人ばかりの列です。されば 輿の中の人物はいささか身分ある人と思われます。
明るい冬の陽ざしを浴びて静々と歩んでゆく一行のはるか後方から、かすかに、しか し紛れもなく馬の馳せくる蹄の音。何事ならんと宰領の武士が馬上から振り返ると、 確かに都のほうから一騎の武者が馬を駆ってこの近江路を追ってくる様子です。その姿 が次第に大きくなり、やがて行列に追いついた武士は宰領の武士と旧知の仲らしく、 顔を見合わせながら共に馬から下りると、行列とは少し離れて何やら話し合っていま したが、そのうち宰領の武士の面が次第に険しくなってゆき、ちらちらと輿のほうを 見やっています。追っ手の武士も輿を見つめて暫らく無言でいましたが、やがて一礼す ると宰領の武士に首桶のようなものを手渡し、背を向けてひらりと馬にまたがり、速 足で今来た路を戻って行きました。
その後姿が豆粒のようになるまで見送っていた宰領の武士は、しばらく顎鬚を撫でな がらうつむいて考えにふけっていましたが、やがて受け取った首桶を部下のものに渡す と思いきったように輿の傍らに歩み寄り、中の人に声をかけながら幕を上げました。 と、幕をくぐって現われたのは、年の頃は四十路(よそじ)近い、打掛姿の背に黒髪を長 く垂らした、きりりとした目鼻立ちの身分ありげな美女です。
「何事か。ここはどのあたりか」
女はまぶしげに辺りを見回しながら宰領の武士に問いかけました。 「何やら馬の近づく気配がしたが......」
 「はっ、それがその......」
 「何じゃ、なんぞ言い難いことか。都より何か申して来たか」
「さればでございます。まことに申し上げ難きことながら......」
「今さら義政どのが心変りして、わらわの北への流罪を思い直されもすまい。それとも、 もしや......」
「その...それでございます。只今の都よりの使いの者の申すことには、恐れながらお局 (つぼね)様を流罪の途中にて害し奉れとの由でございます」
「なんと、この身を殺(しい)せよと......それは誰の言葉じゃ」
「お上(かみ)のお言葉でございます」
「お上とな。いや義政どのではあるまい。重子の方であろう。富子の方が死産なされた のを、この今参りが呪詛したためじゃと根も葉もなきことを申して義政どのに迫り、この身を流罪にしても尚あきたらず死罪を申しつくるとは......殿も殿じゃ。ご幼少の頃 からこの膝でお育ちになり、成人なされてのちもお守り役としていつくしまれたこの身 を、いかにお気に入りの御正室富子の方のこととはいえ、流罪の途中で害せよとは...... さほどお憎しみとは信ぜられぬ。無念じゃ」
「ご無念のほどはお察し申し上げまするが、ともあれお上の命とあれば、この進左衛 門は臣として従わねばなりませぬ。恐れながらお覚悟のほどを」
「よいわ。今更北国の草深き里にて、朝に夜に都を思いつつ老いさらばえて果てるより は、いまだ些か女の華の残るうちに散るがよかろう。しかし仮にも時の将軍家をお育 て申し、お情まで頂きしこの身が、かかる道端で果てとうはない。進左、ここは何処の あたりぞ」
「まもなく甲良(こうら)の里かと存じまするが...」
「されば近くに寺などあろう。その庭などお借りして死に場所としようぞ。進左、あ たりを訪ねてみよ」
 「こころえました」
進左衛門が一人、蹄も重げに馬を進めてゆくのを見送って、今参りの局は遥か都の 空を眺めています。供の者たちも無言で顔を伏せ、局から眼をそらせています。
やがて戻ってきた進左衛門が
「これよりしばらく先に、甲良仏寺と申すささやかな古寺がございます。それがし、 その住職に会い事情を話し、裏庭の一隅を借り受け、後の回向も頼んでまいりました れば、まずはそれへ...」
局は輿に戻り、一行はまた粛々と進み始めましたが、誰一人口を利く者もありませ ん。
ほどなく路の右手にささやかな山門が見え、その奥の正面に林の中を切り開いて建 てられた本堂がありました。門前で馬を下りた武士たちが傍らの木に馬をつなぎ、進 左衛門が無言で先に立つのに従って一行が山門をくぐると、参道の左手は墓所となっ ており、その奥には住職の庵室や寺男の住まいとおぼしき二、三軒が本堂とつながって おるのが見え、また参道の右手を本堂に沿って裏へ回ると、そこは住職の趣味でしょう か、さまで広からねど中央に池などを設け、石などをほどよく配した小庭になってお り、林のかなたには雪に覆われた伊吹の山なみが借景(しゃっけい)のように連なってい ます。あたりはしんと静まり返って、ときおり林の奥から聞こえてくる鵯(ひよどり)の 声のほかは物音ひとつしません。
進左衛門の指示に従って、池と背後の木立の間の開けたところに、小者が本堂の床 下から探してきた古畳を二枚並べて敷き、一応死の座が整うと、進左衛門は輿に向か い、支度が整った旨を告げます。輿の幕が中から開き、今参の局はみずから幕をかか げて外に降り立ちました。そして
――これがわが最期の地か――
と言いたげに、しばし寺の庭の風情を眺めておりましたが、やがて敷かれた畳のほうに歩み寄りながら、
「進左、西はどちらぞ」
と問われ、進左衛門が示すその方角に向かって畳に上り、するりと打掛を脱ぎ畳の 上に広げてその上に座ると、はるか西方浄土を拝するごとく軽く頭を垂れ瞑目合掌なされております。その間に進左衛門が腰の大刀に手をかけて局の背後に回ろうと すると、その気配を察した局はきっと振り向き、
「何をする、無礼者。かりにも時の将軍をお育て申した身が、そなたのごとき名もなき 者の手にかかって果てとうはないわ。わらわはこの場で自害いたすゆえ、そなたはわら わが息絶えしのちに、わが首を都に持ち帰り、義政どのと富子めの前に差し出せば、 そなたの役目は果したことになろうが、どうじゃ」
「はっ、それがしとて、お上の御指図とはいいながら、この手でお局様のお命を絶ちとう はございませぬ。御自害下さればありがたき幸せに存じまする」
「さればわが自害いたすさまをその場にてしかと見届け、帰りて後にお上につぶさにお 伝えいたすがよい」
承った進左衛門は、ほっとしたように太刀をはずして局の右斜め前に一間(約二メー トル)ほど隔てて坐り、他の武士らと小者どもは局から池をへだてた左うしろの広場に 一団となって土下座して、ともに初めて目にする高貴の女人の自害に、眼をこらし息 を呑んで見守っています。その前で局はいささかもわるびれず落着いた手つきで小袖を 脱ぎ落とし、白絹の肌着一枚となり、その襟を大きく左右に引き広げるとするりと 両肩から滑らし、更に下腹を包んでいた腰布の紐を解いて折り返し、ぐいと押し下ろ しました。たちまち形よく張り出した両の乳房、ほどよく締まった細腰からふっくらと 盛り上がった腹、深くくぼんだ縦長の臍の下まで、局の上半身が余すところなく露わ になりました。四十路(よそじ)に近い女ざかりの、充分に肉のりした真っ白な女体が、 折からの昼過ぎの冬陽を浴びて輝くようです。
局は黒の漆塗りに螺鈿(らでん)を散らした守り刀の鞘を払うと、七寸余りの青白く 光る鋭い刃にじっと見入りながら、左の掌で静かに下腹を撫で回しています。そのさま を見た進左衛門は思わず、
 「お局さまには、お腹を召されまするか」
と声をかけました。
「おお、切腹いたすわ。そもそもこの身は由緒ある大舘家の女じゃ。雅(みやび )を専ら とする都びととは異なり、事あらば女とて打ち物とって戦うこともある武勇の家柄ゆ え、わらわとて武芸一通りの心得あり、また自害の際は男女を問わず切腹いたすが定 法じゃ。ましてこの度の生害は無念のきわみ。わらわも大舘家の家法に従い存分にこの 腹かき切って果てる覚悟ゆえ、まことの女の無念腹のさま、しかと見るがよい」
かつては将軍義政のお守役として権力をほしいままにした女丈夫、今参の局の凛然 とした態度と言葉に、進左衛門は恐れ入って承るばかりです。その間に局は七寸余の 刃のなかばまで懐紙で巻き、腹切刀にしつらえると、
「この刃は安綱の鍛えし業物。我が家にても一、ニといわれる銘刀じゃ。今その切れ味の ほどを、わが腹にて味わうも一興ではないか。のう、進左」
「は、はい 進左衛門は只々頭を下げるのみです。
やがて局は、下腹を押し撫でていた左手を左腰骨のきわに移してぐっと腹の皮肉を引き付けるように緊張させ、右逆手に握った刃を左に回して切先をここと思うあたり に向けました。冬の陽光はうららかとはいえ、雪を頂いた伊吹の峰から吹き降ろして くる風はただでさえ身にしみる冷たさなのに、その中に上半身も露わに坐っている局は 心の昂ぶりのために寒さも感じないのか、その真っ白な肌はうっすらと紅色に染まってきて艶めかしい限りです。一同はただ息をつめて局の右手の刃に見入っています。
————————切腹の描写略————————


解説 宮坂三郎
今回の篠崎氏の作品の主人公である今参りの局はもちろん実在の人物で、歴史 小説の中にも、例えば加賀淳子氏の「火の女」、瀬戸内晴美氏の「幻花」などを はじめとしてしばしば登場しているが、そのほとんどはヒロイン日野富子の脇役、 時には悪女役として富子ら一族と対立し、強烈な存在感を残したまま、物語なか ばにして消えてゆくのである。
しかし調べてみると彼女の資料は意外に乏しい。足利氏歴代の重臣で清和源氏 の流れを汲む名門大館満冬(おおだて・みつふゆ)の娘であることは確かである が、その生年月日も娘時代の名前も明らかでなく、彼女が室町幕府八代将軍足利 義政の側女になった理由も経過も明白でない。だから死亡年月日は確かであって も、享年何歳と記すことはできないのである。
義政は、前将軍義教の夫人で、京都朝廷の公家(くげ)藤原一門の日野家の出 身である重子の次男であるが、義教のあとを継いだ長男義勝が十歳で死亡したた め、その後を受けて九歳で将軍となった。お今は義政の乳母であったとも、お守 り役あるいはお伽役として仕えたとも言われているが、義政の側に仕えるように なったのは彼が四歳頃とも十歳前後からともいわれ、どちらにせよ実際に乳房を 含ませて育てたかどうかは疑問である。乳母として実際に役目を果すためには、 それまでに結婚、妊娠、分娩、哺乳の経験があるはずだから、少なくとも二十歳 近くにはなっているはずだし、また、いくら将軍の子であっても四歳になれば乳 離れしているであろうから、お守り役はともかく、乳母の必要はないだろう。お 今が義政の傍らに仕えるようになったのは、彼が次期将軍になることがほぼ決定 的となった頃からであったと思う。そしてその役目はお守り役、つまりこの少年 を一人前の男性として育て、次代の将軍を生ませる能力を持たせるための、現代 で言えば性教育係りであった。その役になぜお今が選ばれたかという理由は明ら かでないが、もちろんお守り役の役目は性教育だけではないから、公家の血の導 入によって次第に柔弱化してきた将軍家の家系に武家の質実剛健な教育方針を 取り入れて、足利家の衰退を挽回しようという配慮からではなかったろうか。
この考えは基本的に正しいと思う。しかしそれまで大奥を我家のように支配してきた都育ちの女たちにとって、将軍のお守り役に新参の武家の女が任ぜられた ことははなはだ面白くなかったに違いない。彼女に与えられた「お今」あるいは 「今参り」という名にはすでに「新入り」あるいは「新参者」という軽侮の意味 が含まれており、いわば暗黙の「いじめ」である。逆に言えば、それが彼女を義 政に対する溺愛と周囲への反抗に追い込んだのではないか。
お今が義政のもとに侍るようになったのが彼の十歳前後であったとすれば、お 今は二十歳ほど年上の三十歳前後、まさに女盛りである。このような美女に昼も 夜も付き添われていては、まさに「生みの親より育ての親」であって、実母の重 子よりもお今に心を奪われたのは当然であったろう。特に元服を迎える十四、五 才が近づくと、お今は添い寝の床でその爛熟した肉体で義政に男女の性の手ほど きを教えたであろう。義政はすっかり身も心もこの「最初の女」に奪われてしま った。彼女は義政のすべてであった。
「幕政は三魔(ま)が取り仕切っている」と言われだしたのはそのころからで ある。「ま」とは、一が烏丸資任(からすま・すけとう)、二が有馬持家(ありま・ もちいえ)、そして三が今参りの「ま」である。烏丸資任は義政の母重子のいと こで大納言である。有馬は口八丁手八丁の男で巧みに幼い義政に取り入った。し かし今参りは自ら権謀術数をあやつるタイプではなく、むしろ義政が彼女の言う ことを何でもきくので、地位出世を望む者が競ってお今に口添えを頼んだのが真 相らしい。もちろん大奥の女が表(おもて)の人事に介入するのは明らかに分を 越えているといわれても仕方がない。しかしこれはお今の言いなりになった義政 のほうにも責任がある。表の人事は表の意見が第一であり、そのために老中がお り、大老がいるのである。たとえ幼少であっても義政は将軍の器ではなかった。
果して義政が十四歳の宝徳元年(一四四九)、尾張の守護代交代の人事をめぐ って、母の重子とお今の推す人物が激しく対立し、義政はお今の肩を待ったため、 重子は怒りを爆発させ家を出て嵯峨に移ってしまった。これにはさすがの義政も 困って、重子の顔を立てて事を収めた。
しかしその後も義政はお今を寵愛し、ついに享徳四年(一四五五)正月、お今 は義政の最初の子を生んだ。幸いと言うべきか、女の子であった。もしこれが男 であったら只事では済まなかったかもしれないが、女であったため、その子がそ の後どうなったか記録には残っていないようである。しかしこれによって、お今 は義政を一人前の「男性」として育て上げたことを身を以て証明したわけで、彼 女は今参の局と呼ばれ相変わらず義政の愛妾として権力を保っていた。局(つぼ ね)というのは老女ともよばれ、表の大老に当たる大奥の最高権威者である。
その年の八月、二十歳の義政は正室として日野富子を迎えた。富子は当時十六 歳で、日野氏の分家の娘であり、義政の母重子は富子の大叔母に当たる。これは もちろん重子の画策で、若い将軍の周囲を朝廷貴族日野一族で包囲したことにな る。もちろん義政もこれを警戒し、従来どおり今参りの局をはべらせ続けながら、 弟の義視(よしみ)を後継にしようとした。しかし優柔不断な義政は、次第に女 として成熟してゆく富子の肉体にも愛情が移り始め、やがて長禄三年の正月、富 子は待望の男子を設けた。しかし不幸なことに、この子は出産直後に死亡(一説 には死産)した。もちろん富子と重子の悲しみは大きかった。しかしこの死を逆用して、目の上の瘤である今参りの局を葬ろうと考えたのは、女の恨みの深さと 恐ろしさに身震いがする思いである。
重子はただちに陰謀をめぐらし、比叡山の密法僧に祈祷させて一人の少女を神 がかりにさせ、このたびの死産は今参りの局の呪詛によるものと言わせたのであ る。これを耳にした単純な義政は、長男を失った悲しみに激昂して、直ちに局の 大奥追放を命じた。富子の出産からわずか三日後の正月十三日のことである。い かに重子が手回しよく一方的に事を運んだかがわかる。
局の流刑先は琵琶湖中に浮かぶ沖の島とも、単に北方の地ともいわれているが、 どうせ途中で局を暗殺するつもりであった重子と富子にとっては、どこでもよか ったのであろう。そして局の一行が近江(滋賀県)の唐崎にさしかかった時に悲 劇は起こった。その模様はこの作品に近いと思われるが公式の記録はなく、しば らくたってから「局は流刑先で不慮の儀により死亡した」とだけ発表された。た だお今の一族の大館開周が書き残した「禅門行状」によると、お今は死罪の告知 を察知して使者の到着を待たずに護送の武士と共に唐崎寺に入り、武門の女らし く切腹して果てたが、すでに腹に懐剣を突き立てたところへ追っ手が到着したの を「さがれ、汝らごときの手にかかるわらわではない」と一喝しつつ存分に腹か き切り、はらわたを掴み出して凄惨な最後を遂げたとあり、これが定説となって いる。
もちろん幕府ではこの一件の詳細を秘していたが、その後の経過は重子と富子 にとっては決して後味のよい結末をもたらさず、夫義政の無能から権勢は富子ら 日野一門の手に移ったものの、その五年後には重子が死亡し、幕内には内紛が絶 えず、寛正六年(一四六五)に待望の男子義尚(よしひさ)が出生したものの、 彼を次期将軍にするかどうかで紛争がおき、ついに応仁元年(一四六七)一月に 世にいう応仁の大乱が勃発し、延々十一年にも及んだ。そしてその間、義政は富 子と別居し、翌年には将軍職を義尚に譲って引退し、文明九年(一四七七)、よ うやく大乱も終結して、富子の長年の努力が報いられたかに見えた矢先、義尚は 二十五歳でぽっくり死に、翌年には夫義政にも先立たれて、富子は巨万の財を抱 えたまま孤独となった。
このような不幸が続けば、いくら強気な富子でも「何の因果か」とみずからの 過去を思い直すこともあったろう。お今の死後二十一年、富子の末子の義覚が眼 病のため片目を失明したとき、富子はようやく初めて無実のお今を葬った自分の 非を認め、彼女の霊を京都御霊社(ごりょうしゃ)の末社に祀って手厚く弔い、 「悪かった。もうこれ以上私に祟らないでくれ」と神明に謝罪したのである。し かしお今の霊は果してこれで浮かばれたであろうか。ただ唇に冷たい笑みを浮か べて「いまさら遅すぎまする」と一言つぶやいただけではなかったろうか。


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